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オーストラリアの歴史
■ オーストラリア大陸の形成

 地球の創生は46億年前にさかのぼります。先カンブリア時代の始まりです。
前半の10億年程は地球が固まるまでの期間でした。
 イスアン世に入って陸地が形成される様になり、最初の生物と言ってもバクテリア的なものが発生しました。それが固体化してストラマトライトとなり、陸地の大半を覆うようになりました。
 このストラマトライトが酸素を発生させ大気圏を形成したのです。
 およそ35億年の歴史を持つこのストラマトライトは世界中でバハマとオーストラリアだけに今なお生息し続けているのです。

いわゆるオーストラリア大陸は地球創世記から連綿と続く歴史を持った国土なのです。

 先カンブリア時代の終わり頃の約6億年前に南半球にゴンドワナ大陸(Gondwana)が誕生しました。
現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸や、アラビア半島、マダガスカル島を含み、北半球や赤道にはいくつかの小さな大陸がありました。

約2億5000万年前のペルム紀には陸地がまとまり一つの大きなパンゲア大陸を形成しました。

約2億1000万年前の中生代三畳紀に入って、パンゲア大陸は大きくローラシア大陸とゴンドワナ大陸に分裂しました。

約1億6000万前頃のジュラ紀に現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸などを含む西ゴンドワナ大陸と、南極大陸、インド亜大陸、オーストラリア大陸を含む東ゴンドワナ大陸へと分裂しました。

約1億4000万年前から6500万年前の白亜紀に東ゴンドワナ大陸は、インド亜大陸及びマダガスカル島と、南極大陸及びオーストラリア大陸の2つに分裂しました。

約6500万年前の新世代に南極大陸からオーストラリア大陸が分裂し、オーストラリア大陸が北上を始め、約5500万年前にオーストラリア大陸とニューギニアが分裂しました。

 約7万年前に始まり1万年前に終了した地球上の1番最近の氷河期には、海面が低下し、オーストラリア大陸とニューギニア周辺の大陸棚が一体化して誕生したサフル(Sahul)大陸と呼ばれる陸続きの亜大陸になった時期があります。
海水面の位置が現在の位置に安定したのは約6千年前と推定され、その後、オーストラリア大陸は、北上を続けています。

歴史  オーストラリア大陸に先住民アボリジニが移り住んだのは約5万年前です。
16〜17世紀にかけてヨーロッパ人が来航するまでのオーストラリアは非常に長い期間、外部からほとんど隔離された状態にありました。
1770年4月、キャプテン・ジェームス・クックがシドニー・ボタニー湾に上陸して、オーストラリア東海岸を発見し、英国は東海岸の領有を宣言しました。

1788年1月、英国は最初の囚人移民団をシドニー湾に送り込み、流刑植民地としての歴史が始まりました。
流刑囚の輸送は1867年を最後に廃止され、一般入植者が流入、鉄道敷設などのインフラ整備や鉱山開発が進められました。

19世紀末、連邦結成の機運が高まり、1901年、メルボルンを臨時首都とするオーストラリア連邦が結成されました。

移住者を∃一口ツパ系白人に限定する「白豪主義」は1958年に廃止され、次第にアジア人移住者が増加。
80年代から90年代にかけて、国家アイデンティティの確立を求める声が高まり、労働党前政権は移住者それぞれの文化・価値観を尊重する「多文化主義」、アジア寄りの外交政策「脱欧入亜」を推進しました。
1999年11月7日、オーストラリア人の大統領を元首とする「共和制」への移行の是非を問う「共和制国民投票」が実施されましたが、大統領を議会で選出する共和制移行案は否決されました、しかし共和制そのものは過半数の支持を得ました。


■ オーストラリアの歴史
1788年  初代総督アーサー・フィリップが率いる第1船団がポート・ジャクソンに到着。
 この頃、オーストラリア先住民の間に明らかな政治形態が存在しなかったためオーストラリア先住民の土地は、大英帝国に領地化された。
これに伴い、オーストラリア先住民は、彼らの住居を追われ、多くは殺害された。
 また、ヨーロッパから持ち込まれた多くの疫病がオーストラリア先住民に伝染し、多くのオーストラリア先住民が死亡した。
ヨーロッパの野生の動物と家畜の持ち込みは、オーストラリア大陸の自然生息形態を破壊する原因になった。
 タスマニア島では、戦いにより純血のオーストラリア先住民が絶滅し、オーストラリア大陸のオーストラリア先住民の人口は、激減した。

20世紀の始めにオーストラリア先住民を隔離し、保護する法律が成立した。
この法律によりオーストラリア先住民の住む場所や働く場所が制約され、家族が離散することになった。

第2次世界大戦後、オーストラリア連邦政府は、ヨーロッパ人との同化政策を掲げ、オーストラリア先住民の全ての権利を剥奪し、オーストラリア先住民のヨーロッパ人化を進めた。
1960年代  オーストラリア連邦政府は、既存の法律を見直し、オーストラリア先住民に市民権を与える法律を成立させた。 
1972年  オーストラリア先住民が所有していた土地の部分的な土地権を返還した。オーストラリア先住民を取り巻く状況は、着々と改善されているがオーストラリア国民は更にすべきことが多くあると考えている。  

■紀元前
50,000 BC オーストラリア大陸への最初の移住者であるオーストラリア先住民(アボリジニ)は、約5万年前頃に到着したと考えられている。
この時期は、海水面が低く、オーストラリア大陸は、湿気のある気候で大きな動物が生息していたと推測される。
40,000 BC 西オーストラリア州スワン川上流で発見されたオーストラリア先住民の使用した道具の遺物がこの時代の物と推定され、最も古い。
25,000 BC オーストラリア大陸の殆どの地域にオーストラリア先住民は住み着いたが約2万5千年前まで内陸の乾燥地域に移住しなかった。
10,000 BC 約1万年前にオーストラリア大陸の気候が暖かくなるにつれてオーストラリア先住民の人口増加も加速したと思われる。
8,000 BC ニューギニアとオーストラリア大陸が海水の上昇により隔てられる。
6,000 BC 海水面が現在のレベルまで上昇する。
4,000 BC ディンゴがオーストラリア大陸に到来。その後、多くの有袋類が絶滅する。

■ 1世紀
1世紀   オーストラリアの国名が由来するラテン語のTerra Australis (叉は、 Terra Australis Incognita)は、「南の土地」(叉は、「南の未知の土地」)を意味する。
 アリストテレスが南半球にも北半球と同じような大きな大陸が存在するという概念を述べている。
 1世紀には、古代ギリシャの地理学者のプトレマイオス(通称、 Ptolemy「トレミー」として知られる)は、その著書の「地理学」に球体である地球を展開して地図を描く方法を述べていて、ヨーロッパ、アジアからアフリカにまでいたる世界地図が添えられており、インド洋の南に陸があり、大陸と陸続きであるという概念に拡大した。
 註、「地理学」は古代地理学の集大成であり、ルネサンス期のヨーロッパで復活し、大航海時代の到来に大きな影響を与えた。

■ 15世紀
15世紀  ルネサンス時代の地理学者は、古代ギリシャ地理学者のプトレマイオスの著書「地理学」を情報源として当時の地図に南半球の未確認の大陸を作図し始めた。
 科学者は、北半球の大陸の重さと同じ重さの大陸が南半球の南極周辺にあると議論したがその地域は現在の太平洋にも及んだ。
 アベル タスマンは、1642年に現在のニュージーランドを発見したがアフリカとオーストラリアの一部と想定していた。

■ 16世紀
1522  ポルトガル人探検家のメンドーサは、最初のオーストラリア大陸の発見者であり、ヨーロッパ人としてオーストラリア大陸南東海岸を探検し、現在のビクトリア州のウォーナンブール近辺で難破したとされるが、現在も、オーストラリア及びヨーロッパの歴史学者の間で意見が分かれ、議論が続いている。

■ 17世紀
1606 オランダ人航海士・植民地総督のウイリアム・ジョンスゾーンは、1605年にニューギニアからデュイフケンで出航し、アラフラ海の東側を南に縦断した後にカーペンタリア湾に入り、1606年にケープヨークのペンネファーザー川付近に上陸した。オーストラリア大陸に上陸した最初のヨーロッパ人としての記録が残っている。
ジョンスゾーンは、トレス海峡の存在を知らず、ニューギニアから陸が続いていると考えた。
新しく発見した大陸をニュージーランドと命名したが受け入れられなかった。

 ポルトガル人海洋探検家のルイス・トレスは、1606年にニューギニアとオーストラリア大陸を隔てる海峡を航海した最初のヨーロッパ人として記録に残っている。
後にこの海峡は、トレス海峡と命名された。
1642 オランダ人探検家アベル・タスマンが現在のタスマニア島を発見し、ヴァン・ディーメンズ・ランドと命名する。
1644 オランダ人探検家アベル・タスマンが現在のオーストラリア大陸を発見し、ノバ・ホランディアと命名した。英訳するとニューホーランドである。イギリスがオーストラリアに変更するまで約150年間に亘りノバ・ホランディアが大陸名とした使用された。
1699 イギリス人探検家のウイリアム・ダンピアは、現在の西オーストラリア州のシャーク湾のダーク・ハートグ島に上陸し、水を求め西オーストラリアの海岸線を北上し、測量を行なったが水を発見できなかった。

■ 18世紀
1770 英国人探検家キャプテン・クックが1770年4月29日に、エンデバー号から現シドニー郊外のボタニー湾に上陸し、その後、東海岸をケープヨーク半島まで北上し、その一帯を「ニューサウスウェールズ」と命名し、大英帝国の領有を宣言する。
1786 大英帝国の国王ジョージ3世は、ニューサウスウェールズを流刑植民地としての領有を宣言。
1788 初代総督アーサー・フィリップが率いる第1船団がポート・ジャクソンに到着し、1788年1月26日、シドニー・コーブに流刑囚778名、海兵隊とその家族約700名が上陸し、ニューサウスウェールズを大英帝国の流刑植民地にする。
シドニー・コーブに上陸した時には、オーストラリア先住民の人口が約30万人で約250言語を話す部族が存在したと推測されている。
現在、1月26日は、オーストラリアの建国記念日になっている。

■ 19世紀
1801 - 1899  この期間は、オーストラリア大陸の探検全盛時代である。海岸線調査を行なった探検家は、Bassと Flindersであり、 内陸調査を行なった探検家は、Sturt、 Eyre、 Leichhardt、 Burke and Willis、 McDouall Stuart、 Forrestである。また、山賊(bushrangers)、 放浪者(overlanders)や不法土地占拠者(squatters)の時代であり、その中でもオーストラリアの歴史に残る有名な山賊は、 ネッド・ケリーとビル・バックレーである。
1803  マッセウ・フリンダ−がインベスゲーター号で初めてオーストラリア大陸の海岸線を周航する。
1804  ニューサウスウェールズ植民地のキャッスル・ヒルでアイルランド人流刑因による暴動が勃発
1813  ブルー マウンテンの難所を越え、西に入植開始
1824  イギリスは、大陸名をニューホーランドからオーストラリアに変更
1825  ヴァン・ディーメンズ・ランド植民地は、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立。
1829  西オーストラリア植民地の設立
1836  南オーストラリア植民地の設立
1841  ニュージーランドは、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立
1850  ニューサウスウェールズ植民地に植民地初の大学としてシドニー大学を創立
1851 - 1961  ゴールドラッシュ「バララットとベンデゴ」
1851  ビクトリア植民地は、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立
1855  ビクトリア植民地は、自治政府を創設
1856  ニューサウスウェールズ植民地、南オーストラリア植民地とタスマニア植民地は、自治政府を創設
1858  人口が1788年から70年で百万人に到達
1859  クイーンズランド植民地は、ニューサウスウェールズ植民地から分離独立し、自治政府を創設
1787 - 1868  大英帝国は、1787年から始めた流刑因の輸送を廃止
1888  万国博覧会をヨーロッパ人入植百年祭としてビクトリア植民地のメルボルンで開催。
1890  西オーストラリア植民地は、自治政府を創設
1891  不況を起因としてオーストラリア労働党の結成
1894  女性の選挙権・被選挙権が南オーストラリア植民地で認められる。
1899 - 1901  義和団事件(中国の外国排斥運動)に列強8ヵ国連合軍としてビクトリアとニューサウスウェールズ植民地から志願兵が参戦
1899 - 1902  南ア戦争(或いは、ボーア戦争)では、各植民地からの義勇兵が参戦

■ 20世紀
1901 1900年に大英帝国議会で成立し、王室の承認を得たオーストラリア憲法に基づいて1901年1月1日にシドニーのセントラルパークでオーストラリア連邦の成立を宣言する。オーストラリア憲法により、連邦議会(上院、下院の2院制)、総督府(王権の代行)、連邦高等裁判所が創設され、連邦政府と州政府の立法権限を分権すると共に首都の制定が決められた。6つの大英帝国の植民地が州としてオーストラリア連邦を構成(現在は、6州と2特別地域)。司法的には、オーストラリア連邦は、大英帝国内の自治領。
1901 移民制限法が成立し、白豪主義政策を開始
1902 オーストラリア連邦で女性の選挙権・被選挙権が認められ、最低賃金、障害者年金等も法制化され、近代国家へ
1911 オーストラリア連邦の首都をキャンベラに決定。オーストラリア首都特別地域を創設し、オーストラリア連邦政府が直接統治
1914 - 1918 第1次世界大戦では、アンザック軍をヨーロッパに派遣。アンザック軍は、1915年4月25日、連合軍と共にトルコのガリポリ半島に上陸し、約8ヶ月の交戦で約8千人の戦死者と約2万人近い負傷者を出した後に撤退。
4月25日は、アンザック軍の上陸記念と勇敢さが称賛され、アンザック・デーとしてオーストラリアとニュージーランドの祝日になっている。
アンザック軍とは、Australia New Zealand Army Corps(オーストラリア・ニュージーランド連合軍団)の頭文字である。Anzacビスケットは、戦場の兵士に送られた素朴なビスケットであり、アンザック・デーの祝日に食べる。日英同盟により日本とオーストラリアは同盟国となり日本海軍がアンザック軍を護衛。南太平洋では、対独戦で日本軍とアンザック軍が協力。
1918 人口が5百万人に到達
1919 国際連盟の設立と同時に英連邦の一員として加盟
1927 タスマニア州の最後の先住民アボリジニが死亡
1931 オーストラリア連邦は、ウェストミンスター法により大英帝国から英連邦の一員になる。ウェストミンスター法は、1926年のバルフォア宣言に基づき、英連邦内の植民地と自治領は、英国の国王を英連邦の結合の象徴とし(王冠への忠誠)、即ち、君主を共有する主権国家であり、対等であることを確認した。ウェストミンスター法を受諾すると英連邦の自治領から独立国家になるがオーストラリア連邦に対して司法的な拘束力が存在。英国議会は、オーストラリア連邦の要請と同意によりオーストラリア連邦に対する立法権と州議会の立法権に対する拒否権を維持。
1939 - 1945 第2次世界大戦では、アンザック軍をギリシャ、クレーテ、北アフリカと太平洋諸島に派遣。
1941 第2次世界大戦によりイギリスからの国土防衛の支援を望めず、カーティン首相は、オーストラリア軍の一部をヨーロッパから撤退するとともにアメリカにオーストラリア大陸の防衛を訴願
1942 日本軍は、2月にノーザン・テリトリーのダーウインと西オーストラリア州のブルームを空襲。5月に特殊潜航艇部隊がシドニー湾でフェリーを撃沈。6月にシドニーとニューキャッスルの住宅地を艦砲射撃。キャンベラのオーストラリア戦争記念館にシドニー湾に張られた潜水艦進入防止網で捕獲した1隻の特殊潜航艇を展示。ウェストミンスター法受諾法により英国のウェストミンスター法を受諾。オーストラリア連邦は、英国への植民地的な従属性から司法的に離脱を始める。連邦政府による税金徴収の開始。
1944 ロバート・メンジーズ氏による自由党の結成。メンジーズ氏は、1939 - 1941と1949 - 1966に及ぶオーストラリア連邦の首相
1945 国際連合の設立・加盟国。国連憲章策定の主要メンバーのハーバート・エバット博士は、国連総会の初代議長。
1945 ニューサウスウェールズ州のカウラ捕虜収容所から日本人兵捕虜が集団脱走。カウラには、日本人戦没者霊園、日本庭園、文化センターがある
1948 国籍・市民権法 1948 の成立により、翌年からオーストラリア連邦の国籍・市民権が確立。1948年までの移民は自動的にイギリス国籍・市民を取得。
1948 - 1975 この期間にヨーロッパ大陸から約2百万人が移住
1950 - 1953 朝鮮戦争で、オーストラリア軍は国連軍の一員として参戦
1956 オリンピックをメルボルンで開催
1959 人口が1千万人に到達
1962 先住民アボリジニとトレス海峡諸島人が連邦選挙で選挙権を得る。
1964 - 1972 ベトナム戦争では、オーストラリア軍をアメリカ同盟軍の英連邦軍の一員として参戦。
1966 - 1974 この期間は、ポセイドン・ニッケル鉱山を典型とする地下資源ブーム。日本向け輸出用に炭鉱、鉄鉱石鉱山の開発ラッシュ。
1966 通貨は、イギリス・ポンドに代わる10進法に基づくオーストラリア・ドルを導入
1967 東南アジア諸国連合(ASEAN)の設立
1967 先住民アボリジニとトレス海峡諸島人は、オーストラリアの人口に算入され、国勢調査の対象にもなり、オーストラリア市民権を得る。
1968 枢密院法により連邦高等裁判所は英国枢密院への上訴権を制限し、州高等裁判所は英国枢密院への上訴権を放棄する。
1972 先住民アボリジニは、首都キャンベラの国会議事堂前の階段に「アボリジニ・テント・大使館」を設置し、土地権、土地権に伴う鉱物資源の所有権とノーザン・テリトリーの自治権の返還を要求。
1972 白豪主義の廃止
1973 イギリスがヨーロッパ経済共同体に加入し,日本が1970年代にオーストラリア最大の貿易パートナーになる。
1974 オーストラリア労働党のウイットラム政府は、「白豪主義」政策を廃止。
1975 国家元首のエリザベス2世陛下が任命したオーストラリア連邦総督のジョン・カーがウイットラム労働党内閣を罷免し、憲法危機が発生。
1975 国連から委任統治を委託されていたパプア・ニューギニアが独立
1975 マルコム・フレーザーを党首とする自由党が政権をオーストラリア労働党から奪取。
1975 枢密院法により連邦高等裁判所は英国枢密院への上訴権を放棄。
1976 アボリジニ土地権利法 1976が成立。先住民アボリジニは、伝統的居住地を証明する証拠提出を条件に請求権の権利を獲得。
1978 ノーザン・テリトリー(北部準州)は、自治政府を設立
1979 ノーザン・テリトリーでウラン鉱山を開発
1981 人口が1千5百万人に到達
1983 オーストラリア労働党のボブ・ホーク党首は、第1回国民経済サミットを開催。総選挙でフレーザー政府が敗北し、オーストラリア労働党のボブ・ホークが政権を取る。
1986 オーストラリ連邦議会と英国議会でオーストラリア法が成立。オーストラリア法は、オーストラリアの主権と独立を確認。英国議会のオーストラリアに関する立法権の放棄、オーストラリアの州高等裁判所が英国の枢密院に対する上訴権の廃止、州総督の英国王権代行の廃止、英国議会の立法に対する州高等裁判所の撤廃権と修正権を認めることなどが含まれる。
1987 先住民アボリジニが聖地として崇めるエアーズ・ロックを含む1,325 km2に及ぶウルル国立公園の所有権が伝統的なアボリジニの所有者に返還され、ウルル国立公園は、オーストラリア国立公園・野生生物サービスに99年間の期限でリースされる。
1988 ヨーロッパ人入植200年祭を開催
1989 オーストラリア首都特別地域は、自治政府を創立
1991 オーストラリア労働党の党首は、ボブ・ホーク氏からポール・キーテング氏に交代し、ポール・キーテング党首が首相に就任
1993 先住権原法 1993の成立。この法律は、アボリジニ土地権利法 1976とは異なり、オーストラリ大陸にヨーロッパ人が入植する前に居住していた先住民アボリジニとトレス海峡諸島人の権利を認める法律である。
1994 東南アジア諸国連合地域フォーラムを創立
1996 オーストラリア労働党は、総選挙で自由党・国民党同盟に敗北。自由党のジョン・ハワード党首が首相に就任
1998 共和制導入についてのオーストラリア憲法会議をキャンベラで開催
1999 オーストラリア連邦総督を大統領にする共和制導入についての国民投票を実施。賛成45%、反対55%で否決。


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ゴールドコーストの歴史

 キャプテン・クックがシドニーに上陸する前に、1770年、この美しい海岸を通りすぎました。
 しかし天気が悪かったのか危険な場所だと、通過したのです。
1840年、英国政府測量技師によって初めて「ゴールドコ−スト」と海図に記されました
20年後の1861年には人口が3万2000人へと急増しました。

 当時はサトウキビ畑、農場、カキの養殖や漁業が産業の中心だった町です、1888年、腕利きの開拓者J・メイヤ−氏がメイン・ビーチのネラング川沿いに一軒のホテルを建てたのを皮切りに、1923年、「サーファーズ・パラダイス・ホテル」が建てられると、地価は急騰、一帯は「サーファーズ・パラダイス」と名付けられました

 当時、橋はどこにも架かってはおりませんが、景気の良かった豪州経済で生まれた車社会がこのサーファーズパラダイスに出現して、勿論みなさんフェリーに乗ってやって来ます。
 その車を洗う商売が始まったのです。しかし普通の商売ではありませんでした。
 可愛いギャルがオッパイの上にスポンジを縛り付け、それに洗剤を付けて名実共に身体を張っての仕事をするのです。


  何と男性運転手は洗車中も車外へは出ずに車中から仕事の出来不出来をよ〜〜く監視するそうです。昔の写真を見てると面白いです。
 ゴールドコ−ストは、このころから、観光地としての地位が確立し、50年代から80年代にかけて人口の増加とともに経済も発展。
 現代のオーストラリアで最も急速に発展を遂げた街として知られています。